犬山城について

犬山城の歴史

築城から現在までの犬山城の歴史です。

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  • 天文6年(1537)

    築城
    天文6年(1537)、織田信長の叔父、織田信康によって木之下城を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代を通じて重要な拠点となりました。
  • 天文16年(1547)

    信長侵攻、池田恒興入城
    天文16年(1547)、織田信秀が美濃(岐阜県)の斎藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣した信康が死去し、その子織田信清が城主となりますが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟の池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。
  • 天正10年(1582)

    秀吉入城
    天正10年(1582)「本能寺の変」で織田信長が倒れ、後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に羽柴秀吉と徳川家康・織田信長の次男信雄(のぶかつ)との間で「小牧・長久手の戦い」が起きました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣、中川定成でしたが伊勢へ行って不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、秀吉方の拠点となりました。以後、小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続きましたが、両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されました。
  • 慶長5年(1600)

    小笠原吉次入城

    その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、文禄4年(1595)秀吉の家臣石川光吉が城主に、慶長5年(1600)、関が原の合戦後、家康側の小笠原吉次が入城しました。

    小笠原吉次像(興禅寺蔵)
  • 元和3年(1617)

    成瀬氏、犬山城拝領

    江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が拝領。正成が城主の時期に改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

    成瀬正成像(白林寺蔵)
  • 明治4年(1871)

    天守以外取り壊し

    明治4年(1871)、廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。

    明治初年、天守以外を取り壊す以前の犬山城(個人蔵)
  • 明治24年(1891)

    濃尾大地震で天守半壊

    明治24年(1891)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」によって天守が半壊するという大きな被害に遭いました。そのため、同28年に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復されました。

    濃尾地震倒壊天守(犬山城白帝文庫蔵)
  • 昭和27年(1952)

    国宝に指定される

    昭和10年、国宝に指定され、文化財保護法の制定に伴い、昭和27年国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理完了。全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年(2004)、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっています。

    大正時代の天守(犬山城白帝文庫蔵)
年代 城主・城大名 参考
天文6年(1537) 織田信康(織田信長の叔父)
天文16年(1547) 織田信清(織田信康の子)
永禄8年(1565) 織田信長の侵攻 織田信清、信長に攻められ犬山城落城
元亀元年(1570) 池田恒興(信長の乳兄弟)
天正9年(1581) 織田信房(織田信長の子)
天正10年(1582) 中川定成(織田信雄の家臣)
天正12年(1584) 秀吉が入城、戦後は加藤光泰(秀吉の家臣) 小牧・長久手の戦いで池田恒興(秀吉軍)が攻略
天正12年(1584) 武田清利(織田信雄の家臣) 秀吉、織田信雄に犬山城を返還
天正15年(1587) 土方雄良(織田信雄の家臣)
天正18年(1590) 三好吉房(豊臣秀次の父)
天正19年(1591) 豊臣秀勝(吉房の子)
文禄元年(1592) 三輪吉高(吉房の義兄弟)
文禄4年(1595) 石川光吉(秀吉の家臣)
慶長5年(1600) 小笠原吉次(松平忠吉の家老) 関ヶ原の戦いの前哨戦で徳川軍(東軍)が攻略
慶長12年(1607) 平岩親吉(徳川義直の家老)
慶長17年(1612) 平岩吉範(親吉の甥) 城代
元和3年(1617) 成瀬正成(尾張藩付家老) 二代将軍・徳川秀忠より犬山城を拝領
寛永2年(1625) 成瀬正虎(尾張藩付家老)
万治3年(1659) 成瀬正親(尾張藩付家老)
元禄16年(1703) 成瀬正幸(尾張藩付家老)
享保17年(1732) 成瀬正泰(尾張藩付家老)
明和5年(1768) 成瀬正典(尾張藩付家老)
文化6年(1809) 成瀬正壽(尾張藩付家老)
天保9年(1838) 成瀬正住(尾張藩付家老)
安政4年(1857) 成瀬正肥(尾張藩付家老)
明治元年(1868) 犬山藩成立

天守の構造

天守の構造としくみについてご案内します。

望楼型三重四階地下二階

ボタンを押すと詳細をご覧いただけます

  • 正面図

  • 側面図

  • 断面図 南より

  • 断面図 東より

見どころ

天守の見どころについて、ご案内いたします。

  • 魔除け

    亀の甲羅に桃がのった形をした魔よけ。

  • 入母屋破風(いりもやはふ)

    入母屋造りの妻にある破風。

  • 唐破風(からはふ)

    破風のうち、中央が弓なり状にせりあがっているものをいう。

  • 石落とし(いしおとし)

    石垣より突出しており、石を落として石垣からの侵入者を防いだ。

  • 付櫓(つけやぐら)

    天守の入り口が敵兵に破られそうな時、側面から攻撃を加えて防備する。

城郭構造

木曽川南岸、標高80mの城山に築かれた犬山城は背後を断崖に守られた典型的な後堅固の城である。本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を南方に階段状に連ねて配置してあった。天守の他に現存する建物はないが、石垣や空堀が残されている。

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