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2026/1/20
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織田信長の尾張統一最終章「犬山城の戦いと織田信清」
織田信長の「最後の壁」
桶狭間の戦い(1560)後、尾張統一目前の織田信長にとって、従兄弟であり犬山城主でもある織田信清は、尾張統一を阻む「最後の、そして最大の障壁」でした。永禄2年(1559)に守護代・織田信賢の岩倉城(愛知岩倉市)を攻め落とした時は、信清と信長は協力しましたが、戦後の所領配分で対立。信清は美濃の斎藤龍興と結び、信長の背後を脅かす存在となります。犬山城は木曽川の断崖に建つ要害で、美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の国境にある軍事・物流の要です。信清は犬山城を本城とし、小口城(愛知県大口町)や黒田城(愛知県一宮市)を支城として木曽川一帯を掌握しました。信長はこの犬山城を攻略しない限り、美濃への進軍は不可能となったのです。
「犬山城の戦い」激闘の舞台裏
難攻不落の犬山城を、信長は多角的な戦略で追い詰めていきます。まずは永禄4年(1561)、小口城へ調略や戦闘を仕掛けるなど、切り崩しを図りました。永禄6年には拠点を清須から小口城南の小牧山へ移し、小牧山城(愛知県小牧市)を築きます。『信長公記』によれば、石垣造りの堅牢な城が目前に現れるのを見て、小口城の兵は恐れをなして犬山へ逃げたといいます。信清はじわじわと、そして確実に追い詰められていったのです。ついに信清の家老・中島豊後守(小口城主)や和田新介(黒田城主)が信長に付き、犬山城は完全に孤立。永禄8年(1565)2月、信長は瑞泉寺(愛知県犬山市)に火を放ち、犬山城総攻撃を開始。信清は犬山城を脱出し、ここに「犬山城の戦い」は終結しました。
豊臣兄弟、疾走す!
犬山城の戦いから美濃攻略にかけて、羽柴秀吉(木下藤吉郎)と弟の秀長(小一郎)の兄弟が、見事な働きを見せます。秀吉は犬山城の対岸、木曽川の北西に位置する伊木山城(岐阜県各務原市)を速やかに掌握。さらに北東の重要拠点である鵜沼城(岐阜県各務原市)の取り込みに奔走します。秀吉は鵜沼城主・大沢次郎左衛門と粘り強く交渉を重ね、ついに無血開城を勝ち取りました。武力に頼らず敵を味方に引き入れる、秀吉得意の「調略」が冴え渡った瞬間でした。この勝利を機に、信長は東美濃の諸城を次々と陥落させ、宿願である稲葉山城(岐阜城)攻略への足がかりを固めました。豊臣兄弟が鵜沼城を調略したことが、美濃攻略を大きく前進させたといっても過言ではありません。
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豊臣秀長の肖像画(春岳院所蔵)
敗者・信清のその後
犬山を追われた信清の足取りには不明な点も多いですが、『甲陽軍鑑』によれば、甲斐の武田信玄を頼り、御伽衆として「犬山鉄斎(いぬやまてっさい)」と名乗ったと記されています。その後、信玄の跡を継いだ勝頼と信長の間で激しい戦いが繰り広げられ、天正10年(1582)3月に武田氏は滅亡します。この戦いの後、信長はかつての宿敵・信清と再会を果たしました。信長は過去の反逆を咎めて処罰することもなく、逆に信清の身が成り立つよう取り計らったと伝えられています。冷徹なイメージのある信長ですが、かつての身内に対して見せたこの寛大な処置は、信長の懐の深さを垣間見せるエピソードです。
めまぐるしく変わる犬山城主
武田氏を滅ぼし、天下を掌握したかにみえた信長でしたが、同年6月、家臣・明智光秀の謀反による「本能寺の変」によって49歳の生涯を閉じます。後継者争いで世の中は乱れ、天正12年(1584)に秀吉と織田信長の次男信雄・徳川家康連合軍との間で「小牧・長久手の戦い」が起きました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣・中川定成でしたが、信雄方と見られていた池田恒興が奇襲をかけ、秀吉が入城します。その後一旦は織田信雄に返還されますが、江戸時代まで城主は何度も入れ替わりました。その後、元和3年(1617)に徳川将軍家から成瀬正成が拝領して以来、幕末まで成瀬家が代々城主を務めました。このように、天下統一を狙う戦国武将たちにとって、犬山城は壮絶な奪い合いの舞台だったことがわかります。尾張と美濃に隣接し、扇状地である濃尾平野の扇の要に位置する「後堅固の城」は、中山道と木曽街道に通じ、木曽川による交易・政治・経済の要衝として重要な拠点でした。歴史の荒波を生き残った犬山城をぜひ、お楽しみください。
文責
犬山城マイスター!たかまる。
参考文献
・『愛知県史』
・『犬山市史』
・『各務原市史』
・『大口町史』
・『扶桑町史』
・『一宮市史』
・『美濃加茂市史』
・『信長公記』
・『甲陽軍鑑』
・『織田信長家臣人名事典』
・『織田信長の系譜 信秀の生涯を追って』
・『織田信長の尾張時代』
・「犬山城主織田信清の新史料と、その実像」
・「犬山城主織田信清の活躍と終焉」



